邂逅、青月の夜

 西方諸国有数の交易都市、リューン。
 昼間は大勢の人が行き交い賑わうこの街も、真夜中ともなれば流石に静かだった。ひっそりと眠る街を、月と星が静かに照らしている。
 そんなリューンの路地を、一人の青年が足音も立てず歩いていた。細く引き締まった体躯に癖のない茶髪、すっきりと整った顔立ちは爽やかな印象だが、今は険しい表情を浮かべている。深紅の瞳は油断なく前方の人影を見据え、腰に提げた細剣が月光を受けて鈍く輝いた。
(最初の行方不明者はひと月前……急ぎたいところだが、さて)
 青年――アルフレドは冒険者である。彼は依頼の一環でとある人物を追跡していた。対象の人物はアルフレドに気づくことなく、ふらふらとした足取りで街外れへ向かっていく。
 事の始まりは、今日の昼までさかのぼる。
「今日で終わりか。アルフレド、ありがとうな」
「こちらこそ世話になったな、親父さん。お疲れ様」
 その時、冒険者の宿《夕星の槍亭》はその長い歴史に幕を下ろそうとしていた。冒険者たちは既に新しい宿に移り、最後の一人だったアルフレドも宿代の支払いを済ませたところである。荷物をまとめた鞄を持ち上げ、彼が宿を出ようとしたその瞬間だった。
「……待ってくれ! まだ行かないでくれ!」
 乱暴に扉を開けて駆け込んできたのは、同じ通りにある喫茶店の店主である。彼は縋るようにアルフレドの肩を掴み、叫んだ。
「ハンスさんか。一体どうし、」
「アンナがいなくなったんだ! 頼む、あの子を探してくれ!」
 全力で走ってきたのだろう、ハンスの呼吸は荒く、顔は真っ赤になっている。がくがくと肩を揺さぶられ口も開けないでいると、見かねた宿の亭主が口をはさんだ。
「まあ待て、ハンス。まずは少し落ち着け」
「落ち着いてられるか! もう一晩経ってるんだ、あの子に何かあったら――」
「詳細がわからなきゃ引き受けようがない。……ほら、これでも飲め」
 亭主が差し出したのは冷たい水が入ったグラスだ。ハンスはひったくるようにグラスを受け取り、一気に呷った。
「……すまん、少し頭に血が上ってたみたいだ」
「仕方ないさ、アンナちゃんがいなくなったんだって?」
 亭主は慰めるように軽くハンスの肩を叩く。そして椅子をすすめながら、アルフレドへ視線をやった。――どうやら逃げられないらしい。溜息をついたアルフレドは、ハンスの隣に腰掛け口火を切った。
「……とりあえず、話は聞く。アンナがどうしたって?」
「あ、ああ。アンナが……娘が出かけたのは、昨日の昼過ぎだ。それきり帰ってこないんだよ」
 彼女はいつものように、夕食の買い出しに行くと言って出掛けたらしい。普段なら一時間ほどで帰ってくるのに、日が落ちて鐘が鳴っても戻ってこない。リューンで生まれ育った彼女が迷子なんて有り得ないし、突然家出するような娘でもない――これにはアンナをよく知る亭主も同意した。アルフレドはあえて反論しなかった。明るく朗らかで、よく店を手伝っていた少女――彼女が考えていたことは、彼女にしかわからない。
「アンナはいつもどこで買い出しを?」
「ユリノキ広場の市場だな。それからツユクサ通りのパン屋と肉屋、あと――」
 ハンスはふと言葉を途切らせ、視線を宙に彷徨わせた。
「……そういえば、最近面白い店を見つけたと言ってたな。前にも帰りが遅いことがあって、問い詰めたらそこに寄ってたと」
「店の名前と場所は?」
「いや、わからん。……くそ、あの時もっと言って聞かせていれば!」
 また気が高ぶって来たのか、ハンスは勢いよくテーブルを叩く。その顔は悔し気に歪んでいた。――彼から聞きだせるのはこれぐらいだろうか。アルフレドは、努めて冷静な声で聞いた。
「それでハンスさん、本当に俺に依頼する気か?」
「……どういう意味だ?」
 面食らったのか、ハンスは訝し気に問う。亭主が顔を顰めているのを無視し、アルフレドは続けた。
「捜索には人手がいる、だが今この宿にいるのは俺だけだ。……ハンスさんにも世話になったから言うけどな、治安隊にいった方がいいと思うぞ」
「治安隊ならもう行ったさ! だが連中、まともに取り合っちゃくれねえ!」
 それはそうだろう、とアルフレドは胸中でつぶやく。今年はゴブリン達魔物の活動が活発らしく、その討伐で手一杯なのだ。家出か誘拐かもわからない今の状況で、人手を割く余裕はない。だがそれは、アルフレド一人が請け負ったところで変わらないのだ。
「なら別の宿で、別の冒険者に頼むべきだ。――生憎俺は、化け物殺しが専門だからな」
 もっとも、人探し専門の冒険者なんて聞いたことはないが。うなだれるハンスをよそに、アルフレドが席を立ちかけた瞬間だった。
「捜索に人手がいるのはもっともだ。……だがアルフレド、時間との勝負である事も確かだろう?」
「親父さん、何言って――」
 引き止めたのは亭主だった。アルフレドをまっすぐ見つめ、真摯な声で続ける。
「今日一日だけでいい、依頼を受けてくれないか? その間に、信頼できる冒険者たちを私が探す」
「頼むアルフレド、銀貨百――いや、二百枚出す。アンナを探してくれ……!」
 亭主に続き、ハンスも言い募る。冒険者ひとりに出すには十分すぎる金額だ。その額からも切実な声からも、ハンスがどれだけ必死なのかわかる。
「……今日一日で、どこまでやれるかはわからないぞ」
 身一つでリューンにやってきた頃から世話になった二人に、そこまで言われては断れない――こうしてアルフレドは、少女の捜索依頼を受けることになったのだった。

 《夕星の槍亭》を出たアルフレドはユリノキ広場に向かった。昨日ここにアンナがやって来たのか、まずはそれを確かめなければならない。
 広場をぐるりと見渡す。野菜や肉、パンなど様々な食料品の店が集まるこの広場はいつも主婦たちで賑わうのだが、今は客足が落ち着いているらしい。どこへ行こうかと考えていると、八百屋の店主と目が合った。
「すまない、少し聞きたいことがあるんだが」
「はいよ、今日は人参がおすすめだよ!」
 恰幅のいい女店主は、にっこりと笑顔を浮かべて告げた。合わせるようにアルフレドも軽く笑う。
「じゃあそれを一束。……それと、女の子を探してるんだ。茶髪で翠の瞳、背丈は、」
「あぁやっとかい! ようやく治安隊も腰を上げたんだね」
「は?」
 想定外の反応だった。戸惑うアルフレドに気づかず、店主は口早に続ける。
「そりゃあゴブリンだって放っておけないけどさ、女の子一人消えたってのも大問題だろう? 一週間も経っちまったから心配だったけど、ちゃんと仕事してるんだねえ」
「……いや、待ってくれ。一週間だって?」
 アンナが消えたのは昨日の夕方だ。低い声で問うアルフレドに、店主も訝し気に首をひねった。
「あぁそうだよ。……あんた、治安隊の人じゃないのかい?」
「残念ながら冒険者だ。そして探してるのは、サンザシ通りに住むアンナだよ」
「何だって!? アンナちゃんもいなくなったって言うのかい?」
 店主の反応に、アルフレドは舌打ちを堪えた。この依頼、厄介なことになりそうだ。

 聞き込みの結果、アンナが昨日確かにユリノキ広場に来ていたことは確認できた。そして、アンナを含め四人の少女が行方不明だという事実も判明した。最初の二人は娼館に勤める少女だったため、失踪ではなく脱走だと思われていたらしい。……だとしても、治安隊は何をやっているのか。この人数なら騎士団も出張ってくる事態だろう。本当に、面倒なことになった――溜息をつきながら寝台に腰かけたところで、部屋のドアが開いた。
「こんにちは、お兄さん。あなたが冒険者さんね?」
「ああ。開店前だって言うのに悪いな」
 焦燥を爽やかな笑みで取り繕えば、少女もつられるように甘やかに微笑んだ。化粧でわかりづらいが年齢はまだ十六、七といったところだろうか。
 アルフレドが足を運んだのは《芙蓉の蕾亭》だ。最初に行方不明になった少女、ルイズが働いていた娼館である。
「それで、聞きたいことって何かしら」
 少女はアルフレドのすぐ隣に座った。ふわりと香水が香る。
「ルイズの事だ。最近、彼女に何か変わったところはなかったか?」
 少女の顔が微かに強張った。膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、床を見下ろした。
「……あの子、恋人がいたの。その人と一緒になりたいって、ずっと言ってたわ」
 だからルイズが姿を消した時、ついに駆け落ちしたのだと皆思っていたらしい。それが変わったのはつい一昨日の事。恋人だった男が『ルイズはどこだ』と乗り込んできたのだ。
「あの子が恋人を置いてどこかへ行ってしまうなんて有り得ないわ。どうすればうまくいくのかって、怪しげな占いにも通っていたぐらいだもの」
「あぁ、やっぱりか」
「……どういうこと?」
 訝し気に問う少女に、アルフレドは溜息と共に答えた。
「このひと月のうちに、少なくとも四人の少女が姿を消してる。その全員が、占いに入れあげてた」
「っ、そんな……!」
 少女は両手で口元を覆い、深くうつむく。涙を堪えるように、硬く瞼が閉じられた。
「やっぱりおかしかったのよ、あの人。私がもっと、ちゃんと止めていれば――」
「もしかして、占い師を知っているのか?」
 アルフレドは逸る気持ちを押さえて聞いた。これまで聞き込みした中には、占い師と直接会った人物はいなかったのだ。大げさなほど怯え、悔いている様子も気になった。
「一度、ルイズと一緒に行ったことが……その人が恐ろしくて、すぐ出てしまったけれど」
 少女は震えながら頷いた。
「あんな濁った、暗い目は見たことなかったわ。まるで、死人みたいだった。それに」
 少女はなぜか口ごもった。再びうつむき、落ち着かない様子で髪の毛先をいじっている。
「気になったことがあるなら何でも言ってくれ。少しでも手掛かりが欲しいんだ」
 穏やかな声を意識して問えば、少女はおずおずと顔を上げた。
「……あれは、どう言えばいいのかしら。その占い師が何か喋る度ルイズはぽうっとなって――まるで、あの声に酔っているみたいな顔をしてたの。それが怖くて不気味で、見ていられてなくて」
「そうか。……店はどこに?」
 うなだれたまま、少女は黙って客室の窓を指さす。アルフレドは立ち上がり、その窓から外を見下ろした。日の射さない、暗い路地だった。
「日が暮れるとそこに露店が出るの。多分、もうそろそろだわ」
 少女の言う通り、建物の隙間にねじ込むように一つのテントがあった。厚い天幕に覆われ中は窺えない。幕から漏れるランプの淡い光が、ぼうっと路地を照らしている。
 アルフレドは椅子を窓辺へ運んだ。少女とこの部屋は朝まで抑えている。窓の外からは目を離さず、未だうつむいたままの少女へ声をかけた。
「俺はしばらくここで監視している。君は適当に寝て過ごしててくれ。……あぁ、あとこれを」
 懐から指輪を取り出し、ベッドに向けて放り投げる。念のためと思って持ってきていてよかった。
「情報代のチップだ。威力を弱めた【眠りの雲】が使える。しつこい客に使ってもいいし、売り払ってもいい」
「わかったわ。……ありがとう」
 少女の礼を、アルフレドはどこか苦い気持ちで聞いていた。こんなもの、役に立たない方がいい――そう言えるはずもなく、腰の細剣を握りしめてひたすら眼下の露店を睨んだ。

 占い師が動き出したのは、花街でさえ息をひそめ始める深夜だった。天幕から出てきた人影が露店を畳み、歩き出す。
 少女がぐっすりと眠っているのを確認し、アルフレドは静かに窓を開けた。窓枠を掴み、夜闇の中へ目をこらす。障害物はないと判断し、窓の外へ身を躍らせた。
「……っ」
 着地と同時に一回転し、衝撃を殺す。僅かな物音は暗闇の中に吸い込まれた。路地の先に視線をやれば、占い師はアルフレドに気づかず一人歩いていた。体格からしておそらく男だろう。酔っているのか、ふらふらと頼りない足取りだった。
 見失わない程度に距離を保ち、アルフレドは占い師の後を尾行し始めた。空に煌々と輝く月のおかげで、灯りをつける必要はない。
 占い師は娼館があった通りを抜け、どんどん街外れへ向かっていく。人の気配は遠く、闇はますます濃度を上げる。アルフレドは眉をひそめた。
(どこに向かってるんだ、こいつ。この先は廃墟ぐらいしかないぞ)
 嫌な予感がぴりぴりと肌を刺す。ふつふつと己の血が燃え立つような感覚には覚えがあった。いつでも抜けるように腰の細剣に手をかけ、慎重に足を運ぶ。
 やがて行く手に一つの廃墟が見えた。尖塔の十字架を見るに教会らしいが、訪れるものはとうにいないのだろう。庭には雑草が生い茂り、壁や屋根はところどころ穴が開いて崩れている。占い師は、その中へ入っていった。
 さてどうするか――錆びついた柵を前に、アルフレドは少し考え込んだ。当初は、占い師が誘拐犯であるという確証を得たらすぐ治安隊に通報するつもりだった。一人で安易に踏み込んで、誘拐された少女を人質にされたら厄介である。だがもしアルフレドの〝予感〟が的中していたなら、時間の猶予はない。
(もし当たっているなら、まさしく俺の仕事だけどな。……あの神父でも引っ張ってくるべきだったか?)
 依頼を蹴ろうとした自分への皮肉のようだった。せめて中に少女たちがいないか、それだけでも確かめようと一歩踏み出した瞬間だった。
 何かが割れる音と怒号、悲鳴――一つは知っている声だ。アルフレドは柵を蹴り飛ばし、廃墟の中へ駆け込んだ。
「アンナ!」
 祭壇奥の扉から見覚えのある少女が飛び出してきた。アルフレドを見てくしゃりと顔を歪め、縋るように手を伸ばしてくる。
「アルフレドさん……!」
 アルフレドは少女――アンナの手を取り、自身の後ろに庇うと同時に細剣を抜く。そしてアンナを追ってきた人影へ、一切の躊躇なく突き刺した。
 がきん、と硬質的な音が響く。人影――占い師の長い鉤爪が刃を阻んだのだ。アルフレドは思わず舌打ちした。
「……くそ、やっぱりか!」
 こうしてすぐ近くで見れば、間違いようがない。異様に青ざめた肌に、生気のない濁った瞳、そして鋭い牙――吸血鬼だ。全身の血がふつふつと煮えたぎるような感覚を、アルフレドは歯を食いしばって耐えた。
「《告げる。土は土に、」
「ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァ――――――!」
 耳をつんざく絶叫に脳が揺れた。気絶したアンナを抱え、咄嗟に後方へ飛び退ったアルフレドが目にしたのは、なかなか趣味の悪い光景だった。
(バンシーなんて、どうして――いや、当然か)
 占い師を取り囲むように、二体のバンシーが浮かんでいる。青白く透けた身体に、やつれて歪んだ顔――外見からして、占い師に攫われた少女たちだろう。二人はただ恨めし気に占い師を見つめ、とめどなく涙を流している。その小さな嗚咽にすら頭が締め付けられるようで、アルフレドは呻いた。そのほんの、一瞬の隙を突かれた。
「《動くな》」
「――!?」
 吸血鬼がそう告げた瞬間、アルフレドの全身が硬直した。剣を構えかけた中途半端な姿勢のまま、見えない糸に縛り上げられたように一歩も動けない。
(……くそ、芙蓉の蕾亭の娘が言ってたじゃないか! 占い師が喋る度に酔っていくようだったって)
 おそらく声を媒体とした魅了の術だ。攫われた少女たちも、こうやって操られてしまったのだろう――冷静に分析は出来ても、現状を打破する手段がない。
 吸血鬼は悠然とした足取りでアルフレドに迫る。勝利を確信したように、長い牙を見せつけるように、にんまりと笑っている。その背後に浮かぶバンシーの慟哭などまるで効いていない。それが腹立たしいことこの上無かった。
(どうする)
 吸血鬼が足を止めた。剣は十分届く間合いだが、相変わらずアルフレドの身体は動かない。長い鉤爪がさっと振り上げられる。
(……どうする)
 こんなところでは死ねない。そんなことは許せない。せめてもの抵抗に、迫る鉤爪を睨み上げた瞬間だった。
「《其は天を巡り、地を照らすもの。育み燃やせ、輝く空の輪よ!》」
 聞きなれぬ詠唱と共に、まぶしい光が弾けた。眼前に迫っていた吸血鬼が耳障りな悲鳴を上げ、仰け反る。同時にアルフレドの硬直が解けた。
 バンシー達の顔がふっとやわらぎ、光の中へ溶けて消えていく。廃墟を満たすのは生者には活力を、死者には安息を与える、あたたかな日の光だ。吸血鬼はというと、青白い肌からうっすらと黒煙をたなびかせながら、床でのたうち回っている。
(何だ、今の――誰だ?)
 アルフレドは呆然と周囲を見渡した。光源を追って天井を見上げれば、崩れた屋根の隙間から満天の星空と、一人の少女が見えた。
(……〝魔女〟?)
 真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。少女は箒に腰掛け、空に浮かんでいた。しかも膝の上には黒猫までいる。その姿はまさしく、おとぎ話に出てくる魔女だった。呪縛はもう解けていたのに、アルフレドは彼女から目をそらすことができなかった。少女の白銀の髪が、月の光を反射して七色に輝いている。それがやけに、目に焼き付いた。
 不意に、少女の視線がアルフレドへ向けられる。その瞬間、アルフレドはやるべきことを思い出した。懐から聖油を取り出し、未だ床へ伏せる吸血鬼へ投げつける。
「《燃えろ爆ぜろ、紅炎の矢》」
 アルフレドの指先から炎の矢が放たれ、吸血鬼の身体がごうごうと燃え上がる。アルフレドは未だ気絶しているアンナを抱きかかえ、急いで教会を出た。

「アンナ、起きろ。……アンナ!」
 軽く肩を叩きながら何度か声をかけると、アンナは小さく呻いて目を開けた。
「アルフレド、さん……?」
「怪我は?」
「だ、大丈夫……」
 ゆっくり起き上がった彼女に手を貸し、立たせてやる。服や肌はところどころ汚れていたが、傷はなさそうだった。噛み跡も見当たらず、アルフレドは密かに胸を撫で下ろした。
 ふと気配を感じた。振り向けば、華奢な人影がすうっと地上に降り立ち、こちらへやってくるところだった。
「……こんばんは。良い夜、とは言えませんね」
 声量が抑えられていてもよく響く、澄んだ声だった。人影の足元で、黒猫がにゃあんと鳴く。
「こんばんは、さっきは助かった」
 そう答えながら、アルフレドも一歩距離を詰める。いつでも抜剣できるよう、剣の柄からは手を離さずに。
(一体何者なんだ。こんな夜更けに、こんな街外れまで)
 助けてくれたからといって信用する理由にはならない。だが少女は躊躇なく、ある意味無防備に近づいてくる。あと一歩でこちらの間合い――その瞬間、少女が口を開いた。
「警戒するのも当然ですが、まずは治療をさせていただけませんか」
「え?」
 普段のアルフレドだったら、そんな言葉は一蹴していた。一刻も早くここを離れるべきだとわかっているのに、伸ばされた手を払いのけることができなかった。
「何を、」
「大人しくしてください。【癒身の法】と変わりありませんよ」
 少女が耳慣れぬ呪文を唱えるのと同時に、彼女の手にふわりと光が灯る。その光はゆっくりとアルフレドに移り、彼の全身を心地よい熱が巡っていく。……確かにこれは癒しの魔術だ。だが、どうしてそんなことを――困惑しつつも、どうにか口を開く。
「……すまない。その、礼を言う」
「いいえ、こちらも不躾でした。もう大丈夫ですか?」
「おかげさまで」
 答えながら、アルフレドは目の前の少女を観察した。
 すらりと華奢な体つきに、息を呑むような整った顔立ちの少女だった。白銀の髪に透き通るような白い肌、薄桃色の唇と儚げな淡い色彩の中で、唯一瞳だけは深い色合いをしている。わずかに紫がかった青色――夕暮れ時の空の色だ。簡単には触れられない、触れてはいけないと思わせる容姿だった。
「……お前は、何者だ」
 掠れた声で問う。それだけで精いっぱいだった。
「通りすがりの冒険者です。まだ、駆け出しですが」
 少女はくるりと杖を回した。再び足元で黒猫がにゃんと鳴く。彼女の使い魔だろうか。空飛ぶ箒に黒猫のお供とはやはり古典的だ。絵本から抜け出してきたのだろうか。
(――しっかりしろ、今はそんなこと考えてる場合じゃないだろ)
 軽く頭を振り、己に言い聞かせる。アルフレドは少女に向き直り、素っ気なく告げた。
「早くここを離れた方がいい。あれで消滅させられたとは思えないからな」
 え、と声を上げたのはアンナだった。銀髪の少女は冷静に問う。
「随分派手に燃やしていたようですが」
「あれは多分〝なりたて〟だ。人間が残っている分、神聖な力も効きづらい」
 娼館の少女の話を聞いたときから予想はしていた。これだけわかりやすく行方不明者を出しているのなら、おそらく知能も能力も高くない。実際に対峙した時の感覚もその予想を裏付けていた。その相手の魅了にまんまと引っかかってしまったのだが。
「そういう訳だ、さっさと帰るぞアンナ」
「ま、待って!」
 アンナは青ざめた顔で、アルフレドの腕に縋りついた。震えながらも必死に言い募る。
「まだいるの! ……もうひとり、お姉さんがいるの。助けなきゃ」
 すっと背筋が冷えた。バンシーは二人、ここにアンナ一人。ならば、もう一人少女がいるはずだ。まだ消えていないであろう吸血鬼がここに来ない理由は自明だった。努めて冷静な声を出す。
「馬鹿、今はとにかくお前を――」
 アンナの手を取り、無理やり出ようとした瞬間だった。凛とした声が響いた。
「それは違います。……誰かを助けようとすることが、愚かであるはずありません」
 足が止まってしまった。アンナがぱっと顔を輝かせたのが、視界の隅に見えた。
「貴方だって、この子を助けに来たのでしょう? もう一人残された方がいるのなら、助けるべきです」
 銀髪の少女がアルフレドの行く手を遮るように回り込んできた。青の瞳が再びアルフレドを捉える。まるで心の奥まで見透かすように、まっすぐに。その瞳が、こわいぐらい美しかった。
「貴方は、どうして剣を取ったのですか」
 そして少女は静かに問う。責めるような響きは一切なかった。
(残酷なことを聞くな。この、お嬢さんは)
 息が詰まる。胸を貫かれた女性の姿と生ぬるい血の感覚は、いつでも胸の奥底にある。忘れたことなんて、一瞬たりともない。
「俺は、誰かのためなんかじゃなくて、――っ!」
 再びかっと血が燃え上がった。アルフレドは咄嗟にアンナを突き飛ばし、蹴りを放つ。獣のような咆哮が響いた。
「……くそ」
 細剣を抜き、小声で悪態をつく。口元を真っ赤に濡らした吸血鬼が、アルフレドを睨んでいた。
「走れアンナ! バルベリア教会だ!」
「でも、」
「いいから! 俺の名前を出せば全部通じる、だから早く!」
 振り返る余裕もなく怒鳴りつければ、アンナが駆け出す気配がした。それを追おうとした吸血鬼を阻むように、その足元を細剣で薙ぐ。ぱっとどす黒い血が飛び散った。
「邪魔を、するな……!」
 男はぎらぎらとした眼でアルフレドを見据え、唸る。鉤爪を武器に攻撃してくるのは変わらないが、その速さも狙いも段違いに正確なものになっていた。おそらく残された少女の血を吸って回復した結果、能力も強化されたのだろう。
(だからさっさと離れたかったんだ、あぁもう厄介だな!)
 胸中で悪態をつきつつも、アルフレドは冷静だった。細剣を突き出すように構え、詠唱を紡ぐ。
「《穿つは静謐、沈黙せよ!》」
 剣先が青白い光を灯した。地面を蹴って男の懐へ飛び込み、その喉元へ細剣を突き刺す。男は仰け反るように避けたため手応えは浅かったが、声を奪うには十分だ。
 息遣いさえ感じられそうなほど間近で、吸血鬼と視線が絡んだ。濁った赤の瞳が、アルフレドを呪うように射貫く。振り下ろされた鉤爪を細剣で払おうとした時だった。
「……避けてください!」
 考えるより先に体が動いた。全力で後ろに飛んだ瞬間、詠唱が響いた。
「《絡め、捕えろ、蜘蛛の糸》」
 空中から白い糸が何本も舞い降り、吸血鬼を絡め取る。吸血鬼が藻掻くと容易く糸は切れてしまったが、糸は絶え間なく降り注ぎ、とうとう吸血鬼は地面に倒れ込んだ。
「《捕えて!》 今のうちに、早く!」
 【蜘蛛の糸】を出しているのは、先程の〝魔女〟の少女のようだ。必死な声だった。こんな状況なのに、まだ逃げていなかったらしい。
(本当に呆れたお人よしだな。だが、おかげで――!)
 アルフレドは細剣を胸の前に掲げた。ずっと肌の下で沸き立っていた血の温度が上がる。反対に、頭はすっと冴えていた。
「《告げる。土は土に、灰は灰に、塵は塵に――」
 詠唱に呼応するように、細剣の刃が赤く輝きだす。一歩、足を進める。
 その時、蜘蛛の糸がすべて切れて消えた。跳ねるように起き上がり、突進してくる吸血鬼を、アルフレドは正面から迎え撃った。
「――全ては還り行く、在るべき場へ!》」
 赤い光が弾け、剣身が燃え上がる。細剣は吸血鬼の心臓部分を過たず貫き、一瞬にして業火が吸血鬼を包みこむ。
 アルフレドはぐっと両腕に力を籠め、吸血鬼の身体を地面に縫い留めた。見る見るうちに身体が燃えて、焦げて、灰になっていく。その様子を、アルフレドは一切目をそらず見つめていた。
 全てが灰になると同時に、剣から炎が消えた。それを確認した瞬間、どっと疲労感が襲ってきた。全身が鉛のように重く、気怠い。今のアルフレドには少し難易度が高い術を使ったのだから当然だ。
 気を抜いたら倒れ込んでしまいそうだったが、そういう訳にも行かない。地面に刺さった剣を抜き、どうにか立ち上がった瞬間だった。
「にゃあん」
「――ノチェ!」
 廃墟の中から猫の鳴き声がした。銀髪の少女はアルフレドを一瞥もせず、廃墟に駆け込んでいく。アルフレドは少し迷ったが、彼女を追うことにした。
 聖堂を抜け、奥の住居スペースへ入っていく。廊下の奥の一室から、猫と少女の声が聞こえる。
 アルフレドはゆっくりと、その部屋に足を踏み入れた。銀髪の少女が誰かを抱え、必死にその傷を癒している。誰か――茶髪の少女の首元は赤く染まっている。傷口は布で押さえられているが、赤い染みは広がる一方だ。予想していた光景に、アルフレドは小さく呻いた。
「間に合わなかったか」
「いえ、まだです」
 魔女の少女は諦めず、治癒魔術をかけ続けているようだった。もういいと声をかけようとした瞬間だった。
「……ぁ」
 ぴくりと、茶髪の少女の瞼が震えた。そしてゆっくりと、開かれていく。
「あ、れ……あなたたち、は?」
「貴方たちを助けに来ました。もう、大丈夫ですよ」
 銀髪の少女が微笑みかけると、茶髪の少女もぎこちなく笑う。その頬は青ざめてはいたが、確かに生きていた。
 銀髪の少女は、今度はアルフレドに向かって微笑んだ。

「では、私はそろそろ帰らせていただきます」
 銀髪の少女がそう言い出したのは、バルベリア教会の手前だった。少女はアルフレドに一礼すると箒に腰掛け、ふわりと夜空に舞い上がった。
「それではさようなら、冒険者さん。いつかまたお会いしましょうね」
「――ああ、いつか」
 再会を願う言葉は嫌いだったのに、自然と頷いていた。それに驚きながら、アルフレドは少女を見送った。青く輝く満月に吸い込まれるように、人影が小さくなっていく。
「……俺も行くか」
 月に背を向け、アルフレドは歩き出した。まずは教会でアンナの無事を確認し、顔見知りの神父を叩き起こして倒れていた少女を保護してもらわないといけない。吸血鬼討伐の報告と、報酬の値上げ交渉も必要だろう――そう考えを巡らせながらも、どうしても銀髪の少女のことが頭から離れなかった。
(今夜は助けられてばかりだったからな。だから据わりが悪いだけだ)
 そう言い聞かせつつも、本当は違うのだとアルフレドはわかっていた。だがそれを認めたら何かが崩れてしまいそうで、必死に目を背けていた。
(忘れろ俺、万一会えたら借りを返すだけでいい。それだけで、いい)
 縋るように細剣の柄を握りしめていることに、アルフレドは気づいていなかった。
 そして翌朝には銀髪の少女との再会が待っていることも、今はまだ、何も知らない。


なるべく早く出したい自宿創作本のプロローグになる予定。