湖底に揺蕩う
『うつろい森のあなた』(制作:水雲様)FA
頒布していた再録集「旅鳥たちの星下り」収録の書き下ろし短編でした
「どうしてあなたは、そんなことをいうの⁈」
ずぶり、ぐしゃり、と音を立て、眼前のものの身体がみるみる崩れ落ちていく。水と化した魔性が怒りに燃えて、吼える。
「何も知らないままだったなら、ずっとあなたを愛してあげられたのに!」
「……要らないわ、そんなもの」
対するレーティルの声は冷えきっていた。ああ、なんて耳障りなのだろう。騙されるはずがない。己は、この魔性と同じ水の眷属なのだから。
「僕を、あいして」
「愛さないわ。あなたには、何も渡さない」
白く細い指を突きつける。その指先から放たれた水の槍が、魔性の胸を穿った。
*
「……あの」
馬車の停留所へ向かっていると、おもむろに、アルクが口を開いた。
「レーティルはどうして、傍にいた『僕』が僕でないと分かったんですか」
「あいつの態度は、ずれていたの。……ただの、鏡だわ」
レーティルが言ったことを、そっくりそのまま映し出すことしか出来なかったのだ。それしか、知らなかったから。
「……レーティル、なんか怒ってます?」
「当然でしょう」
ため息が出る。苛立ちのままに言葉を紡ぐ。
「あなたって本当に水辺が好きなのね。何度誑かされれば、気が済むのかしら」
「うっ……す、すみません」
「今回は運がよかっただけよ。こんなことばかりなら、いっそ、わたしが―」
そこで唇を噛んだ。今、己は何を言おうとした?
『あいして、あいし、て―』
アルクは戻ってきた。それでもレーティルの心は静まらない。一度起こった波は、容易に消えない。
『――僕は、ただ、あいされたかった、だけなの、に』
魔性の慟哭が、耳の奥で反響する。それを戯言と一蹴できるのなら、自分はあれとは違うのだと言いきれれば、この嵐は静まるのに。
(嫌よ、いや。こんなの嫌。こんなの、いっそ―)
心なんて、捨ててしまえたらよかったのに。
「……レーティル!」
不意に手を引かれて、はっと顔を上げる。アルクは、まっすぐにレーティルを見つめていた。
「すみません、レーティル。心配をかけました」
「別に、そんなんじゃ……」
「いえ、わかってますから」
いや、何にもわかっていない。そうでなければ、そんな風にやさしく微笑みかけられるはずがない。
「ご存じの通り、僕はまだ未熟者です。でも、絶対強くなります」
「……先は、長そうね」
「そうかもしれません」
苦笑しつつも、彼は手を離さない。その掌の温度がレーティルには熱すぎて、火傷してしまいそうだった。
「だから、ちゃんと見ててください。貴方は、最後まで一緒にいてくれるんでしょう?」
繋いだ手に、ぎゅっと力が籠められる。そこに在るのは、無垢なほどの信頼だった。まぶしくて、見上げた眼が痛くなるほどの煌めきだった。
「……あなたって、本当に酷いひとね」
「えっ」
「もういいわ、許すわ」
なんて愚かなのだろう。彼も、自分も。
いつか、彼を冷たい水底に引きずり込んでしまうかもしれない。
いつか、彼の輝きに焼き尽くされる日が来るかもしれない。
それでも彼が手を伸ばしてくれるのなら、それを握り返してあげたい。虚ろな水鏡ではなく、彼だけの心をもって生きていこうとする、アルクの手を。
(大切に、してあげたいの。……それは、本当なのよ)
いつか来る旅の終わりまで、ずっと。たとえ愛など、理解できなくても。