セレナーデは届かずとも

「キス、してください。……それで忘れますから」
「君の気が済むのなら、いいよ」
 ジャックの返答に、少女はきゅっと唇を噛み締めた。今にも溢れそうなほど涙を湛えた瞳が、なぜか仲間の少女と重なった。
(ああ、やっぱり――)
 恋なんて、理解できない。
 振り切るように少女の腕を引き寄せ、その唇を奪った。

「《あたたかい日差し、やわらかな風。
 ……あぁ、夢見ていたの。冷たい水の上、陸の世界を》」
 魔導具店からの帰り道、どこからか聞こえてきた歌声にアルフレドは足を止めた。リラの音に重なる愛らしいソプラノは、よく知る少女のものだった。
「《砂の上を走って、ステップ踏んで踊りましょう。
 一度だけでいい、許されるなら》」
 奏でられるのは切なくも甘いメロディ、歌い上げられるのは異世界への憧れ。声の方へ視線を向ければ、広場には人だかりが出来ていた。皆一様に息をひそめ、歌に聞き入っているようだ。
「《貴方と同じ世界で、歌ってみたい》」
 そっと囁くような声は、静かに広場を震わせた。最後の一音が空気に溶けて、消える。――一拍置いて、わっと歓声が上がった。
 歌手の足元に置かれた帽子へ、銀貨が幾枚も投げ込まれていく。ある程度人がばらけたのを見計らい、アルフレドは歌い手のもとへ足を向けた。
「お疲れ、シャルロット。盛況だったな」
「あれ、アルフレドだ! 聞いてくれたの?」
 少女――シャルロットはにっこりと笑った。無邪気で幼げな表情は、つい先程まで堂々たる歌唱で群衆を惹きつけていた詩人とは、まるで別人だ。
「今日は新作のお披露目だったんだ。……緊張したけど、喜んでもらえたみたいで良かったぁ」
「熱心だな。昨日リューンに戻ってきたばかりだっていうのに」
「……お小遣い減らされちゃったから、おやつ代欲しくて。甜瓜通りのパンケーキが美味しいって話題なんだよ」
「そうか、じゃあこれは追加のトッピング代にでも」
 彼女らしい答えに苦笑して、アルフレドは財布を取り出した。シャルロットとは違い、こちらは懐に少々余裕がある。帽子の中に銀貨をいくらか落とすと、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「わあい、ありがと! たまにはアルフレドも優しいんだね! ……えーと、」
 帽子を抱え、中の銀貨を数えていたシャルロットの視線が、ふっと揺れた。何かを――否、誰かを探すように。
「悪いな、俺だけで。ジャックは別行動だ」
「ちっ……違うもん! 別に、ジャックに聞いてもらえなくて残念なんて思ってないもん!」
 そこまでは言ってないのだが。シャルロットは顔を真っ赤にして、上擦った声で抗議してくる。――こういう素直なところは、リアーネにちょっと似ている。幼馴染の親友ともなれば、性格も似てくるのだろうか。
「はいはい、わかったわかった」
「わかってなーい! ……もう、やっぱりアルフレドは意地悪だなあ」
 シャルロットは頬を膨らませ、ぷい、とそっぽを向いてしまう。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。さてどうするべきかと空を仰ぎ、不意に思い出した。
「――ジャック、そろそろ宿に戻ってるはずだぞ。急げば一緒に昼食とれるんじゃないか?」
「それを先に言ってよ、今すぐ帰ろう!」
 一瞬で機嫌を直したシャルロットは早足で歩き出す。切り替えが早いと言うべきか、恋心に忠実と言うべきか――再び苦笑したアルフレドは、その背中を追った。
「さっきの歌、新作って言ってたけどモデルはメロアか?」
「うん。……ごめんね、嫌なこと思い出しちゃった?」
「いや、別に。記憶も曖昧だからな」
 言いながら、手首に残った鱗をなぞる。昏く冷たい水の底、孤独な藍色の魔女――目を閉じれば、微かに彼女の歌声が聞こえるような気がした。
「……あのさ、聞いてもいいかな」
 おずおずと、遠慮がちにシャルロットが切り出した。
「もし、リアーネと出会っていなかったら……アルフレドは、彼女と一緒にいることを選んだ?」
「……それは、」
 しばし思案する。そもそもリアーネとの出会いがなければ、ここまで自分が冒険者を続けることはない。当然、あの水の眷属と出会うこともなかっただろう。だが、シャルロットが問いたいのはそういうことではない。
「……いや、ないな。彼女と俺じゃ、生きる世界が違う」
「人と水の眷属だから?」
「それもある。だけど、根本的に生き方が違うんだよ」
 たとえ父との因縁がなかったとしても、アルフレドは実家を飛び出しただろう。無数の本を書き上げても記しきれないほど、世界は広い。その一部でもいいからこの目に焼きつけて、知りたいのだ。冒険者として様々な場所を旅してきたが、まだまだ足りない。
(……まぁ、そういう『知る喜び』を教えてくれたのもリアーネなんだが)
 きっと、彼女の隣だから『世界は美しい』と思えるのだろう。――結局リアーネのところへ戻ってしまって、そんな自分の思考に少し呆れた。
「でも、違うからこそ惹かれるんじゃないの?」
「遠くから眺めてるぐらいが丁度いいんだ、そういうのは」
「……リアーネは、」
 不意に、シャルロットが足を止めた。どこか必死な眼差しでアルフレドを見据え、訴える。
「リアーネは、アルフレドが一緒にいてくれるのが嬉しいんだよ。……だから、どこか行っちゃ駄目だからね」
 彼女にしては強くきつい口調に、アルフレドは僅かに目を見張った。数秒の沈黙の後、緩やかに微笑む。
「……心配しなくても、離れられないさ」
 純粋に親友を案じるシャルロットには申し訳ないぐらいだ。きっと、リアーネがいなければ自分はどこにも行けない。メロアを責められないほど身勝手で重たい恋情が、いつか彼女を沈めてしまわないか――そんな不安が、胸の奥底でいつも燻っている。
「そっか。……うん、ならよかった」
 そんなアルフレドの胸中を知らないシャルロットは、むしろ安心したらしい。厳しかった表情を和らげ、先程よりも軽やかな足取りで歩き出す。
「リアーネはね、いつも誰よりも一番頑張るのに自分のこと後回しにしちゃうでしょ? ずっと心配だったんだ」
「……そうだな」
「だからきっと、アルフレドみたいなひとが必要なんだよ。……ほんとはちょっと羨ましいぐらい。あたしもいつか――」
「……シャルロット?」
 言葉が途切れ、再び足が止まる。アルフレドの呼びかけにも答えず、シャルロットは路地の先を見つめていた。――その視線の先には、よく知る人影。
「ジャック?」
 シャルロットの声が震える。そこにはジャックだけではなく、もう一人少女がいた。仕立ての良い服を着た、いかにも裕福そうな少女――その顔には、見覚えがある。つい先日、アルフレドとジャックが受けた依頼で、護衛対象となっていた商家の娘だ。
 二人は何か会話しているようだが、流石にここからでは聞き取れない。妙に緊張感のある雰囲気だが、どうするべきか――アルフレドが逡巡している間に、事態は動いた。
 ジャックが少女の腕を引き寄せ、唇を重ねたのである。
「えっ」
「……うわ」
 最悪だ。シャルロットがすぐ横にいるというのも問題だが、相手がまずい。あの娘は結婚間近――しかも、相手は男爵家の嫡男だ。案の定、少女は勢いよくジャックから離れ、こちらへ駆け出した。
「……っ」
 アルフレドやシャルロットには目もくれず、少女は大通りへ飛び出し、走り去ってしまった。すれ違いざま、その瞳から涙がこぼれたのが見えた。
「――ジャック! 嫁入り直前の女の子に何してんだお前は!」
「なんだ、いたのか君たち」
 ジャックはいかにも気だるそうに、緩慢な動作で振り返る。自分が何をしたのかわかっているのか、いないのか、彼は眠たげに目を細めた。
「あのお嬢さん、婚約決まってるんだぞ? しかも相手は男爵とはいえ貴族だ」
「そうだっけ」
「そうだよ、縁談決まったら元恋人が逆上して拗らせて護衛が必要になったって話だったろ!」
「寝てたから聞いてない」
「聞け! 起きてろ!」
「だって君いたし、バレなかった」
「そういう問題じゃねぇんだよ……」
 頭が痛くなってきて、アルフレドは深い溜息をついた。ジャックのこういう部分は本当に困る。仕事はきっちりこなすが気まぐれで、誰に対しても興味が薄く扱いがぞんざいなのだ。――そこまで考えて、気づく。
「お前、なんであの子にキスなんかしたんだ?」
「ああ、頼まれたから」
「頼まれた!?」
「うん。俺がすきなんだって、あの子」
 ジャックは事もなげに言い放った。……そういえば依頼中、娘は何かにつけてジャックに話しかけていた。単に冒険者が物珍しいからかと思ったが、今思えば彼女がジャックを見つめる瞳はやけに熱っぽかった気がする。件のストーカーを捕らえて依頼が終了したときも、ずいぶん熱心に礼を言われ引き止められ、なかなか宿に帰れなかったほどだ。まさか、とは思っていたがそのまさかだったらしい。……正直に言って、趣味が悪い。最悪と言ってもいい。
「キスしたら忘れるって言うから、した。つきまとわれても困るし」
「それで本当に忘れられる訳無いだろ、この馬鹿」
「……でも報酬もらっちゃったし」
「受け取るなよ!?」
 ほら、とジャックが見せてきたのは真珠の耳飾りだ。見るからに上等なもので、然るべき店に持ち込めば高値がつくだろう。それが健気な恋心に見合う値段なのかは、わからないが。
「わからないな。アルフレド、どうしてそんな怒ってるの? 彼女が望んだことなのに」
 こてん、と首を傾げてジャックが問う。いっそ無邪気なほど、彼は残酷だった。
「……もし俺が彼女の立場だったら、惨めで仕方がない。だから怒ってるんだ」
「そうなの?」
「少なくとも俺は、だけどな」
 アルフレドは、今日何度目になるかわからない溜息をついた。この腐れ縁、いつか刺されるんじゃないだろうか。むしろ刺されるべきなのかもしれない。
「本当に想像もできないなら触れるな、手を出すな。――リスクは極力避けるものだろ?」
「なるほど、それは理解できる」
 ジャックは僅かに口角を上げ、頷いた。ここだけ見れば素直なやつである。アルフレドの頭痛は悪化した。
「……シャルロット、こいつは放っといて帰るか」
「え、あっ……うん……」
 路地の入り口で、呆然と立ち尽くしていた仲間に声をかける。想い人が他人に平然とキスしていて、その意味をまるで理解していないのを見れば流石にショックだろう。
「シャルロット、わかるだろ? 〝あれ〟が遠くから眺めてるぐらいが丁度いいやつだ」
「……ううん、あたしは近くで見ていたいな」
 だから、シャルロットの答えには少々驚いた。つい言葉に詰まったアルフレドを見て、シャルロットは笑った。
「アルフレドの言う通りだって、わかってるよ。……でも、いつか変わるかもしれないでしょ?」
「……望みはかなり薄いぞ?」
「いいの、あたしがそうしたいだけなんだから!」
 今度こそ絶句したアルフレドを置いて、シャルロットは軽やかに歩き出した。どうやら彼女は、アルフレドが思うよりもしっかりとジャックを見つめて、恋をしているらしい。
「……ねえ、何の話?」
「お前には到底理解できそうにない話」
「は?」
「ほら二人とも、はやく! そろそろリアーネも帰ってるよー!」
 アルフレドたちを呼ぶシャルロットの顔は晴れやかで、影一つない。――いつか彼女の紡ぐ歌は、ジャックに届くだろうか。そんな日が来ればいいと、柄にもなく願わずにはいられなかった。


仲間のため、親友のため、想い人のため、
ナイチンゲールは歌い続ける