アケロンの渡し

 船長の首飾りと日記、剣を荷物袋に収めて、一行は部屋を出た。上へ通じる階段に向かうには、浸水がひどい箇所を通る必要がある。自然と一行の歩みは遅くなった。
(……あれ?)
 最後尾にいたシャルロットは、ふと足を止めた。――見知らぬ女性がいる。船底に開いた穴を見下ろすように、ぼうっと佇んでいる。
(まだゴーストがいたのかな。でも、透けてないみたい……)
 ふらり、とシャルロットは一歩踏み出した。仲間たちを追うのではなく、女性へ近づくように――あるいは、引かれるように。そんなシャルロットにいち早く気づいたのは、アルフレドだった。
「おいシャルロット、何して――シャルロット!!」
「え?」
 ゆるり、とシャルロットが振り返った。その足取りが覚束ないものであることに、本人だけが気づかない。
「戻れシャルロット、誘惑呪文だ! 引き寄せられてる!」
「――えっ?」
 何に? ――無意識のうちに、シャルロットは女性を見やった。その輪郭がぐにゃりと溶けて、歪む。
「――っ、きゃああああ!」
 ぐん、と人影が大きく伸びて浮かび上がり、シャルロットは悲鳴を上げた。女性の顔と胴体はそのまま、腰から下には六つの長い首と犬の頭が生えている。その怪物の名を、リアーネは知っていた。
「あれはまさか――スキュラ!? それも、あんなに大きいなんて」
「何だよそれ、やばいのか!?」
「私たちの手に負えるような相手じゃありません! とにかく走って、逃げてください!」
 シャルロットへ食らいつこうとした犬首に、ナイフが突き刺さる。立ち竦んでいたシャルロットの手を、ジャックが掴んだ。
「こっち。走って」
「う、うん……!」
 油断した己たちを叱咤するように、全力で駆ける。当然スキュラが見逃すはずもなく、背後からうねる犬首たちが追ってきた。
(……ああもう、どうして気がつかなかったんでしょう! 遺体が見当たらないのにゴーストがいる理由を、もっと考えるべきでした)
 ここにきて、ようやくリアーネは理解した。船員の遺体はずっと船内にあった――より正確には、船内を徘徊するスキュラの腹の中に。船底から入り込んだ海水と、床を這う犬首で血痕は拭われ、戦闘の痕跡も難破による破損で上書きされた。
「なぁオイ! どこに逃げんだよ!?」
「上です! スキュラは水棲の妖魔、水面の近く――船底や甲板から離れて活動できないはずです!」
 上層に唯一残っていた、餓死した遺体――おそらく、あの貨物庫までスキュラは移動できなかった。そこまで行けば――そう考え走っていたリアーネの眼前で、壁が破壊された。
「そんな、冗談じゃ――」
 壁に開いた穴から、犬の首が伸びる。とうに温度を失った女の瞳がリアーネを捉える。一歩下がりかけたリアーネの肩を、誰かが押し退けた。
「っ、ステファノさ――」
「ガン飛ばしてんじゃねぇよクソが!」
「――――!?」
 投げつけられたのは、武器に巻いていた布だ。それが目に当たった瞬間、スキュラが悶絶する。たじろいだその一瞬に、ステファノが吼えた。
「今だ走れ!」
「は、はい!」
 右も左もわからず、必死に足を動かす。気がつけば、一行は遺体が残っていた貨物庫にいた。
「……どうにか、撒けましたか」
 慣れない全力疾走にへたり込む。肺と喉が焼けつくように痛んで、手足が震えた。
「……スキュラか。セイレーンなら、まだどうにかなったかもしれないが」
「これからどうすんだよ、リアーネ。ブツは見つけたし、迎えの船でとっととおさらばするか?」
 アルフレドが呻き、ステファノが問うてくる。リアーネはスキュラについての知識を浚った。
 スキュラ――妖蛇の肉を食らって変貌した犬の怪物。最初の犠牲者となった若い人間の女性を生き餌として利用する。非常に凶暴かつ狡猾で、餌を求めて時折港町や船舶を襲撃する。決して低能生ものではない。
「スキュラなら、目ざとく迎えを見つけて沈めるくらいしてくるでしょう。あれを何とかしないと、逃げるに逃げられません」
「もし海に放り込まれれば、誰一人生きて帰れないだろうな。何たって、海はやつのテリトリーだ」
「そんなぁ……」
 アルフレドの追撃に、シャルロットががっくりと肩を落とす。ステファノも苦い顔つきになった。
「あいつ、弱点とかねぇのかよ?」
「……あいにく、私はそれらしいものを知りません。アルフレドさんや、ティサは?」
 二人は揃って首を振った。数時間ぶりの重たい沈黙が、一行を包んだ。
「けっ……んじゃやっぱり、こうするしかねぇな」
 ステファノがガシガシと頭をかいた。
「これから、俺が甲板に行って合図を出してくる。船が近くに見えたら、お前らは海に飛び込め」
「だから、海になんて入ったら――」
「お前らが船に乗れるまで、俺がヤツの気を惹く。犬なんだし、鼻は利くだろ? 軽く血でも流しときゃ楽勝だ」
「やめてよ、そんなの! 誰かを犠牲にするなんて」
 シャルロットの悲鳴じみた声が室内に響いた。ステファノが目を瞠ったが、からりと笑って見せた。
「何も死ぬつもりはねぇよ。ただ、このままじゃ埒が明かねぇだろ? だからお前らが先に戻って、海軍なり何なりにこのことを知らせてくれ」
 ステファノはひらひらと手を振りながら、やや早口でつづける。明るい声も表情も、作ったものであることは明白だった。
「ここにいりゃあ当分安全なんだろ? 食料を置いてってくれりゃ、それが切れるまでは凌げると思うぜ」
「……いいえ。やはり駄目です、認められません。スキュラの膂力は見たでしょう?」
 リアーネはきつく両手を握りしめた。己の心臓がうるさく脈打つのを感じる。喉がからからに乾いていた。
「その役目は、私がやります。甲板まで出れば箒で飛び回れますから」
「リアーネ、よしなさい」
 ティサが鋭く叱咤する。それでもリアーネの口は止まらなかった。この依頼を選んだのは、他ならぬ自分なのだ。
「箒でならスキュラにも負けません。ティサとシャルロットは知ってるでしょう? 私、これでも結構悪運強いんですから」
「やめてよリアーネ! そんなの……そんなの嫌だよ!」
 シャルロットが飛びついてきた。その顔が涙で濡れているのを見て、リアーネは一瞬言葉を失った。
「まだ他に方法があるかもしれないでしょ!? あたし、まだリアーネとの冒険やめたくないよ!」
「ですが、ここには武器も道具も――この貨物室でさえ、ほとんど食糧がないんですから」
「……貨物?」
 ずっと顔を伏せていたジャックが、急にすっと立ち上がった。鼻をひくつかせ、辺りを見回す。
「おいジャック、何してるんだ」
「……ん、ここ」
 アルフレドの呼びかけを無視して、ジャックは貨物の山をかき分け始めた。樽の中に入っていた粉を摘まみだしたかと思うと、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。
「湿気ってない……これだけあれば、十分」
 ジャックの唇が綺麗な三日月を描く。にんまりと笑う彼に、アルフレドが露骨に顔をしかめた。
「また悪巧みしてるだろう、お前」
「そんなことない。……アルフレド、君の得意分野だ」
 ジャックはうきうきと樽を室内の中央に運ぶ。樽は全部で三つ、中にはぎっしりと黒い粉がつまっている。その粉を確かめたアルフレドの顔も、ぱっと明るくなった。
「……こいつ、火薬か!」
「すごい、きっと海軍御用達のだ。これに気づかなかったなんて、俺たちはとんだ大間抜け」
「責任は斥候のお前が一番重いだろうが。……とはいえ、これなら質も量も十分だな。いけるぞ!」
 にわかに室内の空気が熱を帯び始める。ステファノが身を乗り出した。
「おい、これがあればスキュラのやつを追っ払えるのか!?」
「……それどころか、俺たちごと船を吹っ飛ばしてもおつりがくる」
「私たちまでって……ちょっと危なすぎない?」
 ティサが呆れ交じりに言うが、ジャックとアルフレドはどこ吹く風だった。
「船上で火薬なんて使えば、大火事。当たり前」
「俺たちはここの船員たちと違って、脱出の手段がある。迎えを呼んでから、タイミングを見計らって船ごと爆破、離脱すればいい」
「ぷっ……はは、あっははは!!」
 突然、ステファノが大声で笑い始めた。ぎょっとするリアーネたちをよそにしばらく笑い転げたあと、彼はすっきりと晴れやかな顔で言う。
「……ったく、向こうみずで穴だらけのクソ頭悪ィ作戦だな! ムチャクチャじゃねぇか!」
「悪かったな、頭悪くて」
 アルフレドがぼそりとつぶやく。ステファノはそんな彼の肩をばんばんと叩いた。
「何拗ねてんだ、オレは褒めてんだよ! ――その作戦、乗ったぜ。やっと冒険者らしいことができるじゃねぇか!」
 ステファノが不敵な笑みを浮かべる。つられるように、アルフレドも口角を上げた。
「ああ、そうだな。冒険者は大概こういうものだ」
「こういうものなの……?」
 呆然とするシャルロットのつぶやきはスルーされた。


リプレイ元『アケロンの渡し』(制作:Niwatorry様)